狢(むじな)--芥川龍之介
書紀によると、日本では、推古(すいこ)天皇の三十五年春二月、陸奥(みちのく)で始めて、
貉(むじな)が人に化けた。尤(もつと)もこれは、一本によると、
人に化(ば)けたにしろ、人に比(まじ)ったにしろ、人並に唄を歌った事だけは事実らしい。
勿論、貉(むじな)は、神武東征の昔から、日本の山野に棲《す》んでいた。
そうして、それが、紀元千二百八十八年になって、始めて人を化かすようになった。
それは恐らく、こんな事から始まったのであろう。
――その頃、陸奥の汐汲(しおく)みの娘が、同じ村の汐焼きの男と恋をした。
が、女には母親が一人ついている。その目を忍んで、夜な夜な逢おうと云うのだから、
二人とも一通りな心づかいではない。
男は毎晩、磯山(いそやま)を越えて、娘の家の近くまで通(かよ)って来る。
すると娘も、刻限(こくげん)を見計らって、そっと家をぬけ出して来る。
男は、待っている間のさびしさをまぎらせるつもりで、高らかに唄を歌った。
沸き返る浪の音に消されるなと、いらだたしい思いを塩からい喉(のど)にあつめて、
一生懸命に歌ったのである。
それを聞いた母親は、傍にねている娘に、あの声は何じゃと云った。
始めは寝たふりをしていた娘も、二度三度と問いかけられると、答えない訳には行かない。
娘はこう誤魔化(ごまか)した。人の声ではないそうな。貉(むじな)かも知れぬと答えた。
夜が明けると、母親は、この唄の声を聞いた話を近くにいた蓆織(むしろお)りの媼(おうな)
に話した。媼もまたこの唄の声を耳にした一人である。貉が唄を歌いますかの――こう云いながらも、
媼はまたこれを、蘆刈(あしか)りの男に話した。
話が伝わり伝わって、その村へ来ていた、乞食坊主(こじきぼうず)の耳へはいった時、
坊主は、貉の唄を歌う理由を、仔細らしく説明した。
――仏説に転生輪廻(てんじょうりんね)と云う事がある。だから貉の魂も、
もとは人間の魂だったかも知れない。もしそうだとすれば、人間のする事は、貉もする。
月夜に歌を唄うくらいな事は、別に不思議でない。……
それ以来、この村では、貉の唄を聞いたと云う者が、何人も出るようになった。
そうして、しまいにはその貉を見たと云う者さえ、現れて来た。
貉の唄は時としては、山から聞えた。時としては、海から聞えた。
この話は、たちまち幾百里の山河(さんが)を隔てた、
京畿(けいき)の地まで喧伝(けんでん)された。
それから山城の貉が化ける。近江の貉が化ける。
海の向うにいる越前の国の人をさえ、化かすような事になった。
化かすようになったのではない。化かすと信ぜられるようになったのである
――こう諸君は、云うかも知れない。しかし、化かすと云う事と、
化かすと信ぜられると云う事との間には、果してどれほどの相違があるのであろう。
独り貉ばかりではない。我々にとって、すべてあると云う事は、
畢竟(ひっきょう)するにただあると信ずる事にすぎないではないか。
イエスは、「ケルトの薄明(うすあか)り」の中で、ジル湖上の子供たちが、
青と白との衣(きもの)を着たプロテスタント派の少女を、
昔ながらの聖母マリアだと信じて、疑わなかった話を書いている。
ひとしく人の心の中に生きていると云う事から云えば、
湖上の聖母は、山沢(さんたく)の貉と何の異る所もない。
我々は、我々の祖先が、貉の人を化かす事を信じた如く、
我々の内部に生きるものを信じようではないか。
そうして、その信ずるものの命ずるままに我々の生き方を生きようではないか。
貉を軽蔑すべからざる所以(ゆえん)である。
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