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ひょっとこ--芥川龍之介

吾妻橋(あずまばし)の欄干(らんかん)によって、人が大ぜい立っている。

時々巡査が来て小言(こごと)を云うが、すぐまた元のように人山(ひとやま)が出来てしまう。

皆、この橋の下を通る花見の船を見に、立っているのである。

すると、そこへ橋をくぐって、また船が一艘出て来た。

船の上では、ひょっとこの面をかぶった背の低い男が、吹流しの下で、

馬鹿踊を踊っているのである。

それも酒で体が利かないと見えて、時々はただ、中心を失って舷(ふなばた)から落ちるのを防ぐために、

手足を動かしているとしか、思われない事がある。

すると、今し方通った川蒸汽の横波が、斜に川面(かわも)をすべって来て、大きく伝馬の底を揺(ゆす)り上げた。

その拍子にひょっとこの小柄な体は、よろけて、

足を空(くう)へあげて、仰向けに船の中へ転げ落ちた。

すると、船はどうしたのか、急に取舵(とりかじ)をとって、

舳(みよし)を桜とは反対の山の宿(しゅく)の河岸(かし)に向けはじめた。

橋の上の見物が、ひょっとこの頓死した噂を聞いたのはそれから十分の後(のち)である。

もう少し詳しい事は、翌日の新聞の十把一束(じっぱいっそく)と云う欄にのせてある。

それによると、ひょっとこの名は山村平吉、病名は脳溢血と云う事であった。

平吉は、どこかひょうきんな所のある男で、誰にでも腰が低い。

道楽は飲む一方で、ただ、酔うと、必ず、馬鹿踊をする癖があった。

ところが、その酒が崇(たた)って、卒中のように倒れたなり、

気の遠くなってしまった事が、二度ばかりある。

医者から酒を禁じられるが、半月とたたない中に、

「やはり飲まずにいますと、かえって体にいけませんようで」

などと勝手な事を云ってすましている。

酒さえのめば気が大きくなって、何となく誰の前でも遠慮が入(い)らないような心持ちになる。

踊りたければ踊る。眠たければ眠る。誰もそれを咎める者はない。

平吉には、何よりも之が難有(ありがた)いのである。

平吉は、酒を飲んでいると、素面の時には恥ずかしくてできないようなことができてしまう。

そしてそれをきっちり覚えている。素面の時には平気で嘘をつく。

それで平吉にはどちらが本当の自分かわからなくなることがあった。

そして、平吉が町内のお花見の船の中で、ひょっとこの面を借りて踊っている内に、

船の中へころげ落ちて、死んだ。

その時、呼吸とも声ともわからないほど、かすかな声が、面(めん)の下から親方の耳へ伝って来た。

「面(めん)を……面をとってくれ……面を。」頭と親方とはふるえる手で、手拭と面を外した。

しかし面の下にあった平吉の顔はもう、ふだんの平吉の顔ではなくなっていた。

小鼻が落ちて、唇の色が変って、白くなった額には、油汗が流れている。

一眼見たのでは、誰でもこれが、あの愛嬌のある、ひょうきんな、話のうまい、平吉だと思うものはない。

ただ変らないのは、つんと口をとがらしながら、とぼけた顔を胴の間の赤毛布(あかゲット)の上に仰向けて、

静に平吉の顔を見上げている、さっきのひょっとこの面ばかりである。

 
 
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